四十にして惑わず。五十にして天命を知る。
1月だと言うのに、全然寒くないペコ地方。
寒くないことはないのだけど、いつもの寒さじゃないよ。
ペコの季節性アレルギーも、
いつもなら雪の訪れとともにキレイに治まっていくのに、
まだ痒みが残ってしまってます( ̄▽ ̄;)
ほらね。ヤバイ事になってるらしい。
そんな1月にしては雪もなく、寒くない今朝。
朝ごはんを食べた後、ペコ父と次男が家を出るまでの間、
ペコは庭で過ごすことを日課にしています。
放っておいたら、ずーーっと座ってます。
声をかけることすら憚られるような後姿でしょ(*´∀`*)
最近とくに思うのですが、
こういう自然な姿っていうか、何もしていないように見える姿こそ、
大事にしなきゃいけなかったんだなぁ。って。
以前の私なら、庭に出たら一緒に遊ばなきゃ!とか、
何かしらのコミュニケーションしなきゃ!とか、
トレーニングぽいことのひとつもやらなきゃ!とか、
庭におやつばらまいて、ノーズワークやらなきゃ!とか、
何かせずにはおられなかった。っていうか( ̄▽ ̄;)
匂いを嗅ぎたいから、嗅ぐ柴犬。
でもさ、それこそ自然じゃないよね。って、
ちょっと思うようになったって言うか。
何かする時はすればいいけど、
いつもいつもそれ考えてなくてもいいよね?みたいな。
犬はそのままでいい。って言いながら、
何かさせようとしすぎてなかったかな?私。
何もしてないように見えて、ペコにとってはこれが正解。
私の犬のスクールの先生が、よく使う言葉に「中庸」というのがあって、
「ほどほどに。」っていう意味だと思ってたのですが、
前から気になってて、たまたまちょっと調べてみたら、
これ、論語とか、アリストテレスの哲学からきてる言葉なのですねぇ。
「中庸」の『中』とは、偏らない、しかし、
決して大小や上下の中間を取りさえすればよいという意味ではない。
よく、「中途半端」や「50対50の真ん中」と混同されている。
中間、平均値、足して2で割るというものではない。
常に、その時々の物事を判断する上でどちらにも偏らず、
かつ通常の感覚でも理解できるものである。(ウィキペディアより)
そんな流れから、論語をチラチラと見ていたら、
いつか聞いたことのある、懐かしいこんなのを発見した。
「吾、十五にして学に志す。三十にして立つ。
四十にして惑わず。五十にして天命を知る。
六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従えども、のりをこえず。」
惑わずに、そろそろ天命を知らなきゃなお年頃なワタクシ。
ちょっと肩のチカラが抜けて、
イイ感じになってきたような、こないような・・・( ̄▽ ̄)
どっちやねん!(笑)