ペコさんくれろ

育犬日記@黒柴ペコ

同じバスに乗っていたとしても

朝からみぞれが降り、寒い一日でした。

ペコには、お久しぶり―ふにカッパを着てもらったよ♪

黒毛に黄色が映えて、似合いすぎでしょ♪←親バカ万歳ヽ(゚∀゚)ノ 

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さて。今日は休日。

先日ポチしたこちらの本が届き、読み進めています。

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認知症の人だけでなく、

一人ひとりがかけがえのない存在だ。と考えることが大切だ。

ということが、全編を通して書かれています。

 

 

犬や動物の環世界。

人とは違った見方で世界を見ている。ということは、

忘れちゃいけない大切なことだけど、

そうだ。犬や動物だけじゃなくて、それは、人も同じことなんだ。

 

 

もちろん私にも私の過去があり、私の経験や信条をベースにして、

まわりの世界を見て、聞いて、感じて、理解しているってことで。

 

 

それをとてもわかりやすい例えとして、こんな風に書かれていました。

 

 

3人が同じバスに乗っていると想像してみてください。

 

最初の人は車を見ていて、

これまでに見たことのない新しいモデルに熱心に注意を向けています。

 

2人目は庭の鑑賞に忙しく、

自分の庭をどうやってきれいにしようかと考えています。

 

3人目はこのバスに乗ったことがなく、心配そうに目的の店を探しています

それを目印に、その次の駅で降りないといけないからです。

 

この三人はそれぞれが独自の個人的な現実を生きています。

ある人にとっては大切なことが、

ほかの人にとっても大切というわけではないのです。

 

ここでは、単純にバスに乗っている状況だけを言っていますが、

宗教や結婚、子供をもつことや年をとること、

死別などの大きな事柄にも当てはまります。

 

この単純なことを忘れてしまうために、多くの誤解や対立が生じます。

 

 

私が認知症を考える時、

介護されるペコ婆と、介護者であるペコ爺のこと、その両方に想いを寄せます。

ペコ爺は、趣味も多く、友人や出かける先も多いので、

今のところ、うつ的な状態にはなっていません。たぶん・・・。

それは幸いな事だと思っています。

 

 

けれども、私と近い世代で、介護をする「嫁」の立場の人などからは、

苦労話を聞くことがとてもとても多いです。

 

 

相手はすっかり足腰も弱くなったお年寄りで、

おまけに認知症なのに、その言動が許せなくて、

わかっちゃいるけどついつい言い争いになってしまう。とかね。

 

 

そんな時、

いやいや、それは間違ってる!認知症っていうのはね!なんて、

私がうんちくのひとつを語ろうものなら、

きっとお嫁さんはその時点で、心を閉ざしてしまうんじゃないかな。

って思うのです。

 

今その人が直面している現実に対して、

私の思う正しさを主張することが、正しいことなのか?

それは常に頭にあったりします。

 

 

介護者であるお嫁さんが、日常に起きる問題に、

フラストレーションを抱えているのならば、

それを否定するのではなく、

私ができることと言えば、その感情に寄り添うことしかないんじゃないかしら。

 

 

よくよく話を聞いてみれば、とてもよく頑張ってるんだよ。

そのお嫁さんも。

もっと認められて、感謝されてしかるべきなのに。

介護する介護者にも、ケアをする人が必要なんじゃないかって思うよ。

 

 

介護者だって人だもの。

愚痴や本音を吐ける場所。心を開いてただ聞いてくれる人が、

身近にいるといいのだけどね。

それって、人の子育てでも、犬育てでも同じなのだと思う。

 

自分のこと、もっと大事にしてもバチは当たらないと思うなぁ。